君の名は。において入れ替わるのは精神か身体か

君の名は。」という映画、ご存知でしょうか?

日本にいたら知らない人はいないくらい有名ですよね!

わたしは実際その映画を見たことはありませんが、なんでも、主人公の2人が入れ替わるという魔訶不思議なことが起こるということは映画を観ていなくても噂でよく聞きます。

今回は10代後半の男女が入れ替わったらどんなうへへな出来事が起こるかについて考察しようかなと思います。というのは嘘で、

2人の間で入れ替わっているのは身体か精神かについて考察しようかなと思います。

 

まず前提として、「君の名は。」における入れ替わりについては、物心二元論に基づいていることとします。

物心二元論は肉体や物質といった物理的実体と精神や魂といった心的実体が存在し、心的実体が思考や判断を担っているという理論です。

 

瀧と三葉が入れ替わってると騒いでいるのは物理的実体と心的実体が乖離し、他者のそれ同士がくっついたからなのでまあ物心二元論で大きく間違ってはいないでしょう。(本編観てないけど)

 

さて映画の鑑賞者たるわたしたちを含めた当事者以外の人の視点からしたら当然にこの場合入れ替わっているのは心的実体、すなわち精神が入れ替わると解釈するのが妥当です。

だってあの2人入れ替わってパッと見問題がなくてなんとか誤魔化してるんだもん。物理的実体の方が表象する分他者から認知されやすいことを考えたらどう考えても入れ替わっているのは精神です。

但しこれはあくまで非当事者たる我々の視点からみたときのお話です。

 

では、当事者の2人からはこの出来事はどう映るのか考えてみましょう。

 

先程述べた通り、物事を判断したり思考したりするのは心的実体です。すなわち、人が自らを自身として認識する自分の本体は体ではなく心なのです。実際我々も当事者になったつもりで考えると、鏡などを見て誰かと入れ替わっているのに気づいたとして、「この体、、何??」とは思っても「この心、、何??」とは思わないでしょう。このことから考えられるのは、2人の間で入れ替わっているのは身体であって精神ではない、すなわち非当事者と逆の結論に至るのです。

 

では2人の間で入れ替わっているものはずっと体であると認識され続けるのでしょうか?

それは多分違いますよね。

だっていつもと違うのは身体だけじゃなくて居場所も境遇も自らの心のあり所以外全部なんだから精神以外全部入れ替わったよりも精神だけが入れ替わったという発想の転換がどこかでおこるはずです。(てかおこんなかったらアホやん) 

 

これは自らの認識する本体である精神を中心とした、すなわち主観的な視点からどこにも中心をとかずに物事を捉える客観的な視点に世界を認識する視点をシフトしたために入れ替わったものを体から精神へと認知し直したと考えられます。

 

 

これってアレに似てません?アレですよアレ。

 

 

 

そうです。天動説から地動説への転換です。

キリスト教における世界観では中心にいるのは神でありイエスであり、イエスのいる地球が世界の中心でありました。その後、イエスの視点から離れ、客観的な視点で世界を見つめることで、それまでの天動説で中心とされていた地球そのものが太陽を中心に回っているという地動説が提唱されましたよね。

 

 

つまり、「君の名は。」において入れ替わったとされるものは、主観的視点においては体、客観的視点においては精神であるという結論にわたしは至りました(∩´∀`)∩ワーイ

そして瀧くんと三葉ちゃんは天動説から地動説に移行した17世紀のヨーロッパ世界と同様の発想の転換を物語の中で成し遂げたといえましょう(_・ω・)_バァン…(_・ω・)_バァン…

デザインについて

スーパーの特売のチラシってめっちゃダサいですよね。

でもその分何が安くて商品をいつ買えばいいのかという情報が一目で分かるからスーパーのチラシって実は素晴らしいんじゃないかなってわたしは思います。

 

今日はそんなスーパーのチラシとは逆でデザインに失敗した事例について考えようかなって思います。

 

パッと思いつくものでいえば、エスカレーターが1番わかりやすいかなと思います。

日本エレベーター協会エスカレーターの使用について「エスカレーターでは歩かず、片側を空けず、手すりにつかまる」べきと呼びかけています。どうやらエスカレーターに乗っている最中に歩くのは危険らしいです。

でもいざ街に繰り出してみると、エスカレーターは片側が立ち止まって乗る人、もう一方は歩く人と暗黙のうちに使い分けられているケースがほとんどではないでしょうか?

しかし、こうした人々のエスカレーターの使用方法は事故の原因となって危険だというのが現状です。

そこで日本エレベーター協会はさっきの呼びかけを行ったようですね。

でもよく考えてみたらエスカレーターを使う人って、「とにかく歩きたくない人」と「楽に速く移動したい人」の2種類いると思いませんか?

スーパーのチラシの例でいくと、「文字は読みにくいけど洗練された美しいデザインにしたから老眼鏡でもかけて目を通してくれよな!」って言ってるようなもんですよ、これ。

つまり、人間の生活をより楽に、豊かにするための道具に過ぎないエスカレーターが、その弱点を改善することなく不便な利用法を人々に押し付けているんです。これってエスカレーターのデザインという観点からしたら圧倒的な敗北な気がします。

 

他の例をあげると、昔の家の台所があります。

 詳しくは覚えてないんですけど、昔の台所って流しとかコンロとかの場所が今と違って調理するのに若干不便だったんですよ。でも、台所の設計をする人は世の奥様方は別にご飯は作れるから今のままでいいって変えようとしなかったんですよ。ほんとにうろ覚えなので名前は忘れたんですけどそんな台所の設計を変えた人がいたんですよ。名前は忘れたけど、、

で、台所はそれからどんどん使いやすくしようってなったんですけど、エスカレーターもこんな感じに使う人のニーズに合わせたデザインに出来ないもんなんですかね、、、

 

これは憲法を勉強したときに学んだんですけど、憲法の目的って国民の基本的人権の保護にあるんです。それで、その手段として三権分立を始めとした国家権力のあり方を定めているんですよ。つまり国会や内閣、裁判所の前に国民が絶対に守られなければならないんですね。

これが入れ替わったら大変ですよね。

国家の存続のために国民を犠牲にしちゃったら元も子もない、、

エスカレーターもおんなじじゃないでしょうか?

人々がより便利に生活するためのエスカレーターなのに、エスカレーターのデザインが未熟だから歩くのはダメ!だなんておかしくないですか?じゃあ歩けるようなエスカレーター作れよってお話ですよね?ってわたしは思っちゃうんですけど、皆さんはどうなんでしょうか、、

正直文系なのでエスカレーターのデザインなんて素人中の素人なので全くもって選ぶって言えるような立場じゃないんですがね(๑>؂•̀๑)テヘペロ

 

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感情の起伏が激しい方が幸せなのか

わたしは10代前半の頃ものすごく怒りっぽかったんです、所謂キレ症ってやつです。

何かある度本当に小さなしようもないことでプリプリ怒っていました。

でも何故か高校生になった頃から全く怒んなくなりました。

大学生になってからは怒ることも泣くことも笑うことも少なくなりました。

いいように捉えればメンタルが安定しているということなんでしょうが、それは果たして本人にとって幸せといえるのかと少し疑問に思いました。

感情の起伏が激しいときは楽しいときはすごく楽しい、つらいときはすごくつらいよう感じ、現在はつらいことに耐性ができたのかあまり落ち込むことはなくなったけど、その分喜びも感じにくくなった。

もしかしてこれは成長の賜物なのではなく感性が錆び付いてしまったのではないかとたまに考えてしまいます。

小さい頃は世界のどんな出来事も鮮やかに映っていたのが今では珍しいことにも心を動かされにくくなっているように思えます。

それは世界への慣れかもしれませんがちょっとつまらない気もしちゃうなって、、

 

いよいよ何が書きたいのかわかんなくなったので今日はこのへんで

チーズフォンデュについて

チーズフォンデュってご存知ですか?

 

そう、あのトロトロしたチーズを好みの具材に纏わせて食べる魅惑の食べ物、、

 

今回はそんな人間の人生を狂わせるチーズフォンデュについて考察してみました。

 

 

チーズフォンデュチーズフォンデュと呼ばれるからには、チーズとフォンデュに分けられるけど、、

チーズは言わずもがなチーズ、、じゃあフォンデュは、、、??

フォンデュは仏語のfondre(溶かすの意の動詞)の過去分詞fonduに由来する通り、「溶かされた」何かしらみたいです。

でも、チーズフォンデュからチーズ要素抜いたらそこには「溶かされた」ものは何も残ってないじゃないですか?

チーズ要素を抜いたチーズフォンデュなんてただの具じゃないか、、、

だって考えてみてくださいよ、串カツから串要素を抜いてもそこにはカツが残っているじゃないですか!!

つまりチーズフォンデュはチーズとフォンデュが一心同体となった魔性の食べ物、、、あれだけおいしくなるのも仕方ないのかもしれない、、、